寿司を塩で食うな

非キラキラ大学生2人の楽しい日記

キーストーン

弥太郎です。

キーストーンって知ってますよね、日本語で言うと要石、のアレ。橋の一番大事な場所。家で言う大黒柱みたいな。これがないと全て台無し、崩れちゃう、みたいな重要な部分のこと。生態系における超重要な種のことを「キーストーン種」とか言ったりします。

さてさて、人におけるキーストーンとは何か考えたことはありますか? 聞き方を変えます。足りないキーストーンを自覚したことはありますか? こんなことを聞いているので当然僕にはそんな経験があります。

時期が時期なので「はは~ん、2回も東京大学に落ちたから頭の良さがキーストーンなんだろ~?」とか思っているそこのあなた。甘い、甘すぎる。頭が良くない人にこんなこと言われる気分はどうだ。

だって頭が悪くても試験じゃない限りなんとかなるし、運動が出来なくてもゾンビ映画以外ならなんとかなるし、顔がブサイクでもセンター張れるアイドル以外ならなんとかなる。でしょ? もしこれらがキーストーンだったら人類滅亡待ったなしです。こういうのは大体相対的な基準なんだからおおざっぱに言えば人類はどんどん半分になっていく。

じゃあどんな絶対的なものがこの若造には足りないのか。それは自己肯定感です。

自己肯定感、文字通り読めば「自己を肯定する感情感覚」。これがないとなぜ人生が詰むのか、見てみましょう。

 

努力をする気にならない

本当、周りの人間、めっちゃ努力できるじゃ~ん!って思ってます。なんで努力できるの? コツがあったら教えて。自分は努力が報われるビジョンが全く見えない。自分なりの努力をしても他人の努力を見ると萎縮して「じゃあ何にも追いつけないじゃん!」ってなる。で、何も為せない。より努力できなくなる。

…おい!!単なるクズやんけ!! 自己肯定感のなさを楯にするな!!

 

恋愛は出来ない

もし、もしですよ、自分が顔がよくても、いや万が一の話ですよ、顔が良くても、恋愛は出来ない。終わった。一生童貞。とにかく自分に好意を持つ人の気が知れない。こんな奴と友達になる!?!? 自分なら友達にならない。あり得ない。自分の嫌いな人と良くつるむ人とあんまり近づきたくないでしょ。そういうこと。それでも仲の良い友達がいるのは一種の慣れです。慣れは大事。

 

人に対する当たりが強い

これ、意味わかんないと思うんですけど、事実です。普通に考えれば、自己肯定感がない分他人への畏怖が積み重なって人当たりよくなる。確かにそう。わかる。でも、自分より何か明確に、例えば数字でわかるような、もしくは周りの総意として、劣っている人を見ると、一種の拒否反応が出る。自分の中では自分が最底辺なのに自分より劣った人が出てきたら矛盾するから、だと思う。自己肯定感がないと他人にまで害を及ぼす。

 

突然「死ぬか~~!!」と言い出す

嫌なことがあるから「死にて~~!!」って口に出す人は多数いると思うんですけど、僕はその前後に発生するイベントに関わらず突然「死ぬか~~!!」と言います。死に対してポジティブだな。こんなんだと将来好転する気がしないし今死んでもよくない? ダメ?そうかダメか~

あと関係ないですけど、死ぬときはエンタテインメント性があるので事故死か事件死がいいです。己の死に他人の享楽を求めるなよ。だからもしかしたらこの記事が遺書になるかもしれない。次の記事が遺書になるかもしれない。なけなしの遺産分与に携われるかもしれないのでみなさんはブログを更新の度によく読んでおいてください。

 

 

脱線が目立ってきたのでとりあえず例示はこれくらいにしておきます。

なんとなく自己肯定感について考えたこともない幸せな人(皮肉ではない)もわかってきたかもしれないんですけど、自己肯定感の肯定する対象は「行為」ではなく「存在」です。つまり自己肯定感がないと何をしても救われないんですね。死にます。

なんでこんな暗いこと(本人は大して暗いとは思っていない)を記事にしたかったのかというと、自己肯定感のある人は、自分が書く記事で心情説明を求められても白紙にするくらいに理解ができない部分が多いと思うんです。なのでこれを読んで「自己肯定感のなさが弥太郎の根底を支配してるんだな~」と思ってくれたら十分です。多分これが弥太郎を読み解くカギになってきます。